作品名:
記憶のいたづら
作者:
岸田 国士書き出し:
妻の順子が急に、
「どうも、怪しいわ。こんなに痛いはずないんですもの」
と、顔をしかめながら言ふのをきいて、鈴村博志は、今更のやうにギクリとした。
「だつて、予定は来月初めぢやないか。まだ二週間はたつぷりあるぜ」
「あたしもそのつもりだつたのよ。だから、なんにも用意なんかしてないわ。でも、病院へ行くひまあるかしら……。苦しい、とても苦しい」
さう言つたまゝ、妻の順子は、そこへ突つ伏してしまつた。
鈴村博志は途方にくれた。今すぐ病院へ電話をかけて、それで間に合ふかどうか? 医者が駈けつけて来るとしても、それまで自分ひとりでどうすればいゝのか?
「弱つたな。とにかく、しつかりしろよ。万一の用心に、そこの産婆にでも来てもらはう。病院へは、むろん連絡はするがね」
彼は、妻のために夜具を敷き、隣家の細君にちよつと声をかけておいて、ドテラ姿のまま家を飛びだした。
思へば迂闊な話である。結婚してから既に十五年、これが最初の経験で…
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